強迫神経症 | 強迫障害 | OCD闘病記

強迫性神経症(強迫性障害/OCD)の娘と向き合う父親の体験記

スポンサーサイト

--.--.-- [ Edit ]

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

692.トンネルの出口の灯り

2017.05.27 [ Edit ]

二十年、歩いて歩いて、ぼんやり見えてきたかな、
トンネルの出口の灯り。

誰に言うとも無く、
「トイレ行ってから、風呂入らんでも、なんとか我慢できてる」
「これって、どんなに楽なことか」
娘が、大きめの独り言のように呟いた一言。

ぼんやり、寝ころびながら聞いていたので、
なんとなく、ぼんやり耳に入ってきたのだが、
「えっ??」
続くとええなあ。
なんとか、平気が続いてくれよ。

それについては、話に触れずにいました。

最近、必死にならずに、触れずに見守るというか、
気づかないことを、私のスタイルにしている。

どうしてということもないのだが、
疲れたからというのでも無く、
無関心になったのでもない。

娘は、冷たくなったと感じているのかもしれないけれど、
けっして、そうでは無く、
まあ、うまく言い表せないけれど、
この、うまく言い表せないというところが、
スタイルとして定着させたいのかもしれない。

まあ、でも、うすぼんやりと、いろんな灯りが、
トンネルの出口に近づいているように、
感じさせてくれているように思う。


スポンサーサイト

691.”ジン”との別れ

2017.05.22 [ Edit ]

17年間、家族の一員だったダックスが、天寿を全うした。

洗濯物を取り込んでいた娘が、2階から早足で階段を降りてくる音。
もう長く、「どうしたんやろ?」のドキドキ感は無いので、
のんびりテレビを見ていたら、
悲壮な声で、「父さん、“ジン”、死んでるみたいや」。

二三日前から、エサを食べなくなり、昨日は水も飲めず、
息子の部屋で生活してきたダックスの“ジン”を、
一階に降ろしてきてやらんとあかんなあと相談していたものだった。
段ボールの箱で、介護ベッドを作ってやったので、
今日から、これで寝さしてやろうと。

急いで、麻痺の不自由な左足に命令しながら二階の息子の部屋へ行くと、
穏やかな顔で、横向きに寝ている“ジン”は、息をしていなかった。
身体を触ったら、まだ温かくて、臨終の直後だったのだろう。

息子が、入れ墨を手術して消し、やくざ組織と縁を切り、
不良仲間とも決別して、住み込みで親戚の工場に働きにいって、
クルマの免許を取得したので、家から通うことになった頃。

17年前なので、平成12年やったんやなあ、
友達が一瞬で誰もいなくなり、寂しかった息子がダックスを買ってきた。

なんとか、息子の不良を直そうと、息子のためにハスキーを飼い始め、
ところが、ハスキーの面倒をみるのは、娘の役目になっており、
「おまえ、ちゃんと面倒みれるのか?」と言いながらも、
なんとか、真面目に働いてくれるならと、
ハスキーの“ゲン”の弟として、歓迎して家族になったダックスだった。

その後、息子は”ジン“を可愛がり、
工場に通うのに、クルマの助手席に”ジン“を乗せ、
毎日、いっしょに仕事に通っていた。

何に向かって尖っていたのか、
これも私に多くの責任があるのだろう息子の不良。
これを、穏やかにしてくれた二匹の犬には、大きな感謝をしている。

息子はもちろんだが、
娘の病気に対しても、二匹の犬たちは、
無言ではあるが、たくさん助けてくれたなあと感謝している。

娘が泣きながら、
「“ジン”は、何の苦しみを持って、逝ってくれるんやろ?」
こうつぶやいた。

ハスキーの“ゲン”が亡くなった時は、
強迫のひどい時だったので、
切に「持って行ってやってくれよ」と、心で言っていたのを思い出す。

段ボール箱を買ってきて、花を敷いて棺を作ってやって寝かせ、
一晩、通夜でおいてやって、翌日に火葬にしてやり骨をひらった。

“ジン”の骨を拾いながら、
おまえが来た時は、
仕事も、息子のことも、娘のことも、
たくさん背負っていたけど、必死で頑張ってたなあ。

今は、背中が、ずいぶん軽くなって、
肩に力を入れることが、少なくなったわ。
すべてが解決したわけでもないし、
苦しいこと、悩みが消えたわけでは無いけどなあ。

達観してるのでも無い、
達観のようなものを、するべき歳になったんやろう。
頑張っても、俺も、もう出来ることが限られてきたからかなあ。

まあ、でも、もうちょっと、頑張らんとあかんから、
見守っててくれよ。

そんなことを、”ジン“にお願いした。

690.諦めんとこ

2017.04.05 [ Edit ]

春の香りがしてきたなあと思ったら、
桜の蕾が、早くも薄赤くなって膨らみ、
もう幾日かで、薄赤が真っ白に変わり、
あっと言う間に花の吹雪になって、
リハビリの道を、白まだらの道に変える。

カックン歩きを見られるのが嫌で、
夜中のリハビリ散歩をしているが、
もう、手をトレーニングウエアの袖に隠さなくても、
手は冷たくならなくなって、
どこか、嬉しいような気分での散歩が出来る。

道道の家や景色が、
余裕で見られるようになっていることに気づいた。

少しの温度変化が、大きく感じを変えるもの。

そんなことを考えながら、
寒かった時より、たくさんの筋肉トレーニングに精を出す。

腰痛の為に、後退してしまった麻痺症状も、
かなり前の良かったというか、マシな状態に戻りつつある。

毎日、右足の動きを、麻痺の左足に教えてやりながら、
リハビリ散歩、リハビリ駆け足を続けてるのだが、
これを気にしすぎるとあかんのかなあとか、
もっと解放してやって自然に動かしてやる方がええのかなあとか、
試行錯誤の自己流リハビリ。

まあ、でも、歩いている姿は、もう、普通の人やでと、
自分でも思えるほどに回復してるんやから、
あながち、間違っているわけでもないやろ。

1年がリハビリ効果の限界だと言う主治医の意見は、
きっと、リハビリで求める効果を、
ある程度で満足し、ストップしてしまうことがほとんどやからやないかなあ。

俺の自己流リハビリ方を、時系列的な文章にして、
たくさんいるだろう同じ脳梗塞の後遺症仲間に教えてやろうかななんて考えながら、
まだまだ、サッカーを満足に近づけたく、
走れるから、止まれる、蹴れる、フェイントも・・・
まあ、でも、なかなか思うようにまでは難しいなあ。

「諦めんとこ」
頭の中で、呟きながら、
とにかく、孫と散歩してるときに、
急に走り出しよって、そこにクルマが走ってきた時、
さっと、危険回避してやれる機敏さを身につけたいなあ。
身につけるというより、戻りたいということか。

とにかく、まあ、とにかく、まだまだ、
「諦めんとこ」

689.脳梗塞からの帰還

2017.02.19 [ Edit ]

二度目の脳梗塞から二年が経過。

動かないイライラから、鬱病になったり、
「走れるようになったから、試合に出してくれ」と、何度もサッカーの同じ場面の夢を見たり、
現実を受け入れられない自分との闘いが続いていたが、
最近、やっと、少し、落ち着いたかなと思える。

今日、昨日と、サッカーのクラブの役員作業、
事務局としての役員改正や、新年度の協会登録作業が、
今までどおりのペースで進められる。

それまでは、「もう、やめてしまおう」とか、
「クラブを退部しようかな」とか、
サッカーだけでなく、他のことでも、
「やらんとあかんこと」を先延ばしにして、ダラダラが当たり前だった。

脳梗塞の主治医から、
「脳梗塞のリハビリが効を発するのは、半年、もしくは一年と言われていますが、
 貴方は、二年で少し走れたとか、私にも、学会でも参考になるくらいです」
そんな褒め言葉をもらって喜んでいるところもあるんだと思う。

ただ、ちょっと動き過ぎで、ヘルニアの腰痛が出て、
約半月、寝たきり生活をした結果、
先週の日曜に、サッカーの試合に、少し出場したら、
麻痺の足が、発症直後ほどに動かず、
仲間からも「あれっ?」と思われるような動きしかできなくて、
自分なりの判断をすると。

脳梗塞で収縮、緊張状態の筋肉をリハビリでなんとかほぐしていたものが、
動かさないと、元に戻ってしまうということなんやろなあと。

「賽の河原の石積み作業を、鬼が出てきて蹴飛ばしていかれたんやなあ」と、苦笑いしながら、
もう一回、一からのリハビリをやり直そうと思っている。

これにしても、「出来たんやから、また、出来るわい」と思えるところが、
ちょっと、立ち直ったのかなあと自己満足しているところ。

娘の強迫も、このように考えられたらええのになあと思うけど、
どうしようもない、コントロールの出来ない苦しみは、
難しいものなんやろうと思うし。

こんな無責任な感想を言ってると、また、娘に、
「父さんは、わかってくれへん」と、怒られるわ。

688.63歳、新年の反省

2017.01.13 [ Edit ]

1歳8ヶ月になった末娘の息子が、
最近、駄々をこねるようになった。

エスカレーターに乗るのが好きで、
買い物に連れて行った時にエスカレーターが目に入ると、
一目散に直進していく。

足を挟むような事故を起こさせないか、
私自身が心配でもあるし、
何度も上ったり下ったりを繰り返すのに、
腰の悪い私が、拙い孫の両手をつかんで付き合うのにも限界があり、
「もう、これで終わりやぞ」と言っても、
まだ話せない孫には伝わらず、嬉々として繰り返そうとする。

娘がいる階に到着したところで抱きかかえて中断しようとすると、
フロアに倒れ込んで、泣き出してしまう。
駄々をこねる作戦にでるわけである。

それでも、私は、ニコニコしながら、
次の日に、腰痛で寝たきりになろうと、
痛くなり始めた腰を気にせず、その作業を続ける。

俺の子供たちは、こういう駄々のコネ方は、まったくしなかった。
それは、私が異常に厳しい父親だったからで、
「世間様よ見てみろ、俺の子供は、常識ある子供たちで、
 我慢することを知っているんだ」
そのように、カッコつけたかった父親に育てられたからである。

私は、子供が大きくなるまで、その育て方、
厳しさに、自信を持っていたし、満足していた。

息子が不良少年の仲間になって、
高校を中退し、入れ墨を背中一面に入れてきた時さえ、
自分に反省もせず、俺の育て方に自信を持っていたし、
問題を解決して、いい方向に向ける自信を持っていた。

姉娘が強迫症を発症し、
いっしょに散歩して、向き合うようになった時に、
「いつか、父さんを殺そうと思っていた」
そう、娘から言われた時くらいから、
私の自信を持っていた厳しさというものに、
やっと、少しずつ、間違っていたのかなあと、
反省をし始めたものだと思う。

若い父親が、粋がってカッコつけすぎた犠牲者なのかもしれん、
俺の三人の子供は。
そんなふうに考えるようになったのは、つい最近のこと。
全否定はしていないのだけれど、自分の持ってきた信念に。
でも、全否定してしまっても、ええのかもしれん。

幼い子供たちを、恐怖でコントロールして、
俺の子は、我が儘は決して言わないし、
親に逆らわずに、言うことを聞きよるんや。
どうだ、世間様よ。
そんな滑稽な、一人芝居をしていただけなのだと思う。

自分を否定したくないので、
心の中でだけ反省してきたこと。

まだ小学校の高学年だった息子に、
あれは、高野山に子供たちを連れて行ったクルマの中、
「日本で一番雨の多いところはどこや?」の質問だったと思う。
答えられない息子に、鬼の形相で怒った時、
姉と妹に泣きながら抗議されたこと。

「父さんは、いつもそうや、
 鬼みたいに怒る、弟がかわいそうや」
もっと、具体的な言葉で抗議されたのだが、
泣きながら強く抗議されたことを、しっかり覚えている。

姉娘が、毎月買ってやっていた学習ドリルを、
白紙のまま捨てていたのを見つけた時、
泣き叫ぶ娘を容赦せずに、叩き続けたこと。

発症してからの娘に、その他にも具体的に、
いろいろと、責められてきた。

悪いことをしたと思う。
ひどい父親だったと思う。

今、孫をかわいがって大切にしている爺ちゃんになって、
やっと、自分の馬鹿さに思いを馳せる。

「父さんは、私が嫌いやったんや」
そうまで言わせてしまう父親。

でも、子供は愛してやまない存在であることは、
三人が生まれてきてから今日の日まで、
揺らぎ無い事実ではある。

「子供にも人格がある」
「暴力は、絶対反対」
そんな言葉に、真っ向勝負をいどんできた私。
私を、自身が全否定してやるのは、すこしかわいそうだとは思うが、
穏やかに接して解らせてやってきてやればよかったなあと、

63歳になって、ようやく、真の反省をしている新年です。






687.人生の正解

2016.12.20 [ Edit ]

娘と夜中に録画しておいたドラマを見ていたとき、
こんなセリフがあった。
「政治に正解は無く、都度、選択があるのみで、選択を正解にする為に努力をする」

私は、政治という言葉を、人生に入れ替えて考えてみた。

振り返った60年、多くの不確かな選択をしてきたなあと。
「良かれと思って」
すべての選択は、良かれと思っての選択なのだが、
正解にするには、なかなか難しくて、
努力も不足、運も不足、
選択をした時点での間違いもあるのだろうし、
ひょっとすると、正解が無いのでは無くて、
選択した時点での正解もあるのかもなどと、
哲学と言うより、偏屈と言った方が近いだろう屁理屈をドラマをみながら考えていた。

ドラマを見終わった後も、
選択、たくさんしてきたけど、どんな選択があったのかなと、
大きな、重要な、軽い、細かな・・・・
具体的に、あれ、これと思いついても、
頭の中でも、並べるのはやめておくことにした。

すべてをまとめて、正解がどれなのか、
選択の種類をすべて整理して、採点をして・・・
失敗、成功、後悔、喜び、幸せ、悲しみ、怒り・・・

寝てから考えよう、
ではなくて、
棺に入ってから考えたらええのかも。

してきた選択を振りかえれる歳にはなってきたけれど、
答えの出ないまま、まだ歩き続けるものなんだろうと。

人生の長い旅





686.「精神病はうつる」という言葉の真意

2016.11.20 [ Edit ]

私がまだ会社に行っていた頃なので、
もう10年以上前の話になる。

「お父さん、友達が言ってたんやけどな、
 家に精神病の人がいたら、
 家族にもうつるって、言うたはったわ」
こんな話を、妹娘がしたことがあった。

この話は、十年以上前の、そのころ、ここにも紹介したことがある。

パソコンには触れられない娘が、
私のそばで、その記事を斜め読みして、
「わたしのこと、馬鹿にしてるのか?」
「なりたくて病気になったのと違うわ」
「邪魔な私は、死んでしもたらええのか」
激高して、泣き叫んで、大暴れ、
大変な事件になったものです。

あの頃を思い出すと、ほんとに大変だったし、
会社の帰り道のクルマの中で信号待ちをしていたとき、
身体が震えてきて、泣き叫びそうな、
なんとも言えない胸の苦しさに襲われて、
とっさにクルマのテレビをつけて、人の声を聞くことによって、
やり過ごしたことがあった。

妹娘の友達は、何を根拠に、どういう意味で、それを言ったのか、
それは、その時、妹娘には聞かなかったし、その後も聞いていない。

私の中で、心の病気の家族を持って、共闘していけば、
家族、身内の人間も、心が病むほど苦しむものだ。
そういうふうに解釈したので、
それ以外は考えていないし、それで合っているのだろう。
その時、娘にも、必死になって、そう説明したものだったと思う。

私の友達に、統合失調症の息子を持つ親がいる。
息子さんには、強迫の症状もあって、
先日、その息子さんが、
見ようと思っていたテレビの番組を見忘れたと言って、
ひどい落ち込みになった時、
その友達自身が、恐怖のどん底にいるような、
悲鳴にも似た声の調子で、電話をくれた。

そういうふうになると、友達には、私の声は届かない、
私の声は届くのだろうが、
何も解釈できないと言った方が正しいのだろう。

その友達が書いているブログにメッセージが入ったものを、
転送してきた、
「貴方は息子さんと共依存の状態にあると思う」
そんな意味のメッセージだった。
自分のことを、
「確かに、共依存だと思う」
という、コメントと共に、送ってきた。

私は、友達に、
「共依存だとは、俺は思っていない」
という意見と共に、
「いろんな苦しみに耐えてきているあんたは、
 確かに、息子が不調に陥った時には異常な状態にはなる、
 しかし、息子に対しては、精一杯の看病、見守ることを実践して、
 俺から見ても頑張ってると思ってる」
「ある意味、共依存に見えないことも無いとは思うが、
 精神病がうつるという、俺の妹娘の話をしたやろ」
「あんたは、病名をつけられるほどではないけど、
 心の病なんやと思うで、俺も、そうやしなあ」
「それは、仕方ないこととして、精一杯、一生懸命、
 出来ることをやっていけばええやろ、お互いに」
そんな意見を返しました。

これが、以前、我が家で大事件になった、
「精神病はうつる」
ということの証明みたいなもののように思う。

しっかりと、社長として仕事をこなしている友達であり、
大黒柱として家族を支えている人である。

辛くても、悲しくても、決して逃げず、
ましてや、迷惑だとなど、かけらも考えていない、
子供の苦しみを自分のこととして闘っているゆえ、
同じ苦しみを味わっているもの。

それを、「精神病がうつる」という表現、
ややもすると、病気の差別だなどと、騒がれるような表現ではある。

しかしながら、軽はずみでは無く、深く考え、しっかり咀嚼して受け止めれば、
真理ではあると私は考えるものである、この言葉です。












685.ひがんだ見方をしてしまう娘

2016.11.09 [ Edit ]

娘と妹娘の家へ行きました。

甥っ子のところに行く時、娘は、無条件に機嫌がいいので、
なんの心配もいらないので、安心と嬉しい気分になります。

私の会社時代の、今も仲良くつきあってくれているる後輩の女性がいて、
彼女も娘より少し年上の独身女性なのですが、
妹さんの息子さん、甥っ子をとてもかわいがっていることを話してくれます。
その彼女の妹さんが、先日、癌でお亡くなりになりました。
悲しさは、いかばかりかと胸が痛いですが、
彼女は、気丈に振舞っていて、湿った様子を見せません。
心の中は傷だらけなのだろうに、芯の強い娘さんです。
私と同じ感じの、心筋梗塞を患ったお父様と暮らしている娘さんで、
私の娘の病気も知ってくれている彼女が、
「娘さん、甥っ子さんが可愛いと思いますよ」
「とても、かわいがるでしょう」と。

そうなんやろうなあと、
彼女の言ってくれるとおり、
甥っ子がかわいいんやろうなと思います。
ちょっと変な言い方なんやろうけど、
何もかも忘れて、夢中になれる存在なのかもだと思います。

その甥っ子のところへ行く途中の車の中で、
妹娘からの私へのメールが入ってきました。

「父だけで来るんやろ?」
「美味しい店があるので、食べに行こうか」

娘といっしょに行くと言ってなかったので、
「お姉も、いっしょやで」と返し、
娘に、父さんだけやと思ってたみたいや。
いっしょやと返しといたわと、なにも考えずに話したのですが。
妹に何かメールを打っていました。

妹娘の家についた時、
妹から姉に、
「お姉、あんたも、いっしょに来るのに、悪いけど私も行くわってなんやの?」
「悪いけどとか、いちいち言わんでええやん」

妹娘は、姉妹の仲で、そんなにへりくだる言い方せんでええと言いたかったもの、
けっして強い口調ではなかったのですが、
娘の顔色が、一瞬変わったのが見て取れました。

甥っ子がいるので、険しい表情にはならなかったのですが、
「私、駅前の店で、服をみてくるわ」
そう言って、止める間もなく、ひとり駅のほうに歩き出していきました。

妹娘は、
「きつく言うてしもたかな?」
「電話して、あやまるわ」
電話をしましたが、つながりませんでした。

「まあ、ええわ」
「よう、あることやから、気にするな」
笑いながら、そうは言いましたが、重い気分。

私が孫と近所を散歩してる間に、妹娘は、姉を車で駅前まで迎えに行き、
いっしょに帰ってきた娘は、機嫌もよく、
事なきを得た感じではあり、
その後、甥っ子を遊んでやったり普通に過ごして安心の時間でした。

ところが、帰りの車の中、
助手席に乗らず、後ろの席に乗った娘の様子を見ていると、
ティッシュを取り出して、泣いています。
やっぱり、気持ちはおさまってない様子。
気づかないフリをして運転していましたが、
おさまりそうに無いので、途中のパーキングで、
「コーヒーでも、飲もうか」と車をとめました。

入った喫茶店で、黙って娘が話し出すのを待っていると、
「わたし、いつも父さんを独り占めしてるからなあ」
「悪いなあと、いつも思ってるねん」
「それを言うたら、あかんのかなあ」

こうなってしまうと、
「おまえの言い方がおかしい」
などと意見すると、かえって機嫌を悪い方向へ向かわせるので、
「まあ、ええやん」と濁した表現でかえします。

たぶん、娘の中には、妹に対する羨ましさがいっぱいあって、
ひがんだ見方をしてしまうのだろうと思い、
そこまでを妹娘は理解してくれないのだろうなと。

親からの目と、姉妹からの目の違い、
それは、仕方の無いものなのですが、
難しいものだなあと、しみじみ。

普通なら、
「そんな言い方せんでも、わたしも来たでえ」
「こう言えばええんや。」
これで、いいのだけれど。

病気のせいで、恋もできない、結婚も、子供も・・・
そんなふうに考えているだろう娘の悲しさ。

普通に暮らさせてやりたかったなあと。
世の中に対し、せめて、ひがまずに見れる娘であったらなあと。

娘が悪いのではなく、
病気が、ひがんだ見方をさせるものなのです。

娘は、いい子なんです。
優しくて、気配りができて、ほんとにいい子なんです。
感受性が強すぎるがゆえ、心に傷を負ってしまったのだと思います。


684.ねんりんピック

2016.11.05 [ Edit ]

このブログは、娘の病気を寄り添って治そうと決心して、
会社を51歳で会社を辞め、
医師に、娘と共の診察日以外に、
私がひとりで医師に娘の症状、様子の報告をメモっていたことから、
共に闘った記録を残そうと考えて始めたものでした。

あのころは、自分はいつまでも若い父でいられると思っていました。
病気をして、身体が不自由になるなど、考えてもいませんでした。

サッカーで、骨折したり、接触プレーで膝の内出血で手術をしたり、
靭帯を切って左足のギブス生活をしたり、
怪我のデパートなどと仲間に言われていたことはあります。

しかし、前立腺がん、坐骨神経痛、二度の脳梗塞、
これは以前からですが、ヘルニアもあり、
今度は、病気のデパートになってしまいました。
脳梗塞の麻痺の悔しさから、鬱病も発症。
脳梗塞での麻痺が自身で認められず、鬱病を発症する方は多いそうです。

そんなことで、娘との闘病を記すものが、
最近は、私の闘病記になっていることが多くなりました。
もちろん、娘が治ったわけではありませんので、
娘との共闘は続いているのですが。

いまだ、パソコンを触れない娘に、私の気持ちや共闘の軌跡を、
私が死んでから、これを読んで、
振り返ってくれたらいいかと思い始めたのも最近です。

まあ、そんなことで、前置きが長かったですが、今日は私のページにします。

「ねんりんピック」名前は耳にしたことがあるが、実態は知らない。
そんな方が多いと思います。
簡単に言うと、
60歳以上の男女が様々なスポーツで競い合う、「国体」のようなものです。

私は、サッカーの滋賀県選抜(もちろんメンバーは60歳以上)の監督兼選手として、
今年は長崎県での開催なので、19名の一員として長崎に遠征してきました。
身体は不自由ですが、3試合の、任意に選んだグループのリーグ戦に、
10分だけでも、出場できたらなあと思っていました。

しかし、グループでの優勝を目指す仲間たちの邪魔になってはいけないと、
結局、私が決めるメンバー、ポジションに自分自身を加えることができませんでした。
先輩が、気を使ってくれて「お前も、試合に出ろよ」、
優しく言葉を、かわるがわるかけてくださるのですが、
緊迫した接戦を見ていると、自分を出場させることは出来ませんでした。
60歳以上でも、サッカーは、他の種目に比べても、
激しく、真剣に戦っているものなのです。

でも、半分以上が先輩なのですが、私の指示に黙って従っていただき、
ベンチにいても一体感を感じられた嬉しい遠征試合でした。

そんな中、一勝して、次の試合に勝てばグループで優勝ができると臨んだ試合。
ともに一勝している熊本県が相手の試合、
相手のフォワードに早く上手い選手が観戦したときにいたので、
それを止められる選手をセンターに配置したのですが、
試合が始まると、サイドに配置したはずの後輩がセンターに入っています。

「あれっ、なんであいつが」
そう思っていた矢先、センターに入っていたその後輩がミスを、
キーパーと譲り合って、蹴ったボールがあわやオウンゴールに。
すぐに交代させて「なんで、お前がセンターに入ってるんや?」
聞いてみると、「先輩に言われて、ポジションを代わりました」

その先輩は、上から3番目の年齢の先輩。
仕方がないと、私は黙っていました。
短い時間で交代させられて腐っている彼を、後半に別のポジションで出場させました。
(シニアのサッカーは、一度退いても、交代が可能なルールなので)
結果、その試合は、なんとか、引き分けになりました。

そのポジション変更の件など、忘れてしまっていた夕食の時間。
私の横に座っていた別の後輩との話の中で、
「Kが勝手にポジション変わってたでしょう」という話になった。
Yさんが、勝手にKがポジション変わったのはなんでやねんって言うてましたと。
その話を近くの席で聞いてたYが、
「I先輩と、センターをどんな風に守ろうかと打ち合わせしてたのに」
私は、「えっ、I先輩が指示したのと違うの?」
まるで子供の嘘みたいな、Kの偽り発言が露呈しました。

笑ってしまうような、60歳以上の選手間の話では無いような話。

サイドよりセンターの方が、かっこいいポジション、
そんなふうに子供みたいなプライドが出たのかなあ。
「アホな奴」
独り言をつぶやいてしまいました。

次の日の最終試合、徳島県に引き分け以上で、グループ優勝。
試合前のメンバー発表の時、
先発メンバーを発表しおえ、試合に対する注意点の確認をするところで、
「私なりに熟考したメンバー編成にしています、
 個々の考え方はあるでしょうが、
 指示させていただいたポジションを勝手に変えないでいただきたい、
 昨日の試合で、そういうメンバーがいましたので、
 それが誰かは、自身わかっているでしょうが、よろしく」

我慢出来ず、こんな話をしてしまいました、
士気を盛り上げる時間に、アホな話をしたものです。
私自身が「アホな奴」でした。

試合結果は、押しまくっていながら、0対1の敗戦。
帰りのバスの中、試合を振り返ることなく沈んだ雰囲気。
まあ、沈んだ雰囲気と言っても、
そこは大人のグループで、負け試合は振り返らないけど、
60歳代の修学旅行の楽しい雰囲気はもちろんあるのですが。

別に、誰も若い頃のように、敗戦を振り返って悔やむ人などおらず。
明るく、還暦こえた修学旅行を楽しんではいるのですが、
若い時から、それぞれ、それなりにサッカーにプライド持って、
試合に臨んできた経験あるメンバーたちなので、
負けて悔しい思いは誰もが持っています。

この悔しさを作ってしまったのは、
試合前に、アホな話をしてしまった自分にあるなあと。

それこそ、それを責めるメンバーなど一人もいないのですが、
大いに反省の一幕でした。

60を超えている人の話だとは思えない話。
青い青い、老人達の真剣なサッカーの話でした。

まったく関係無いようですが、
実は、私の大人気ないというか、我慢の出来ないところ、
そんなムキになってしまうような私の性格が、
少なからず、娘を病気にさせてしまったところもあるのだろうなと、
遠征から帰ってきて、遅まきの反省を繰り返ししています。

683.わたし何も悪いことしてへんのに

2016.10.29 [ Edit ]

今日、娘が、
「父さん、着信拒否ってどうするの?」と聞くので、
誰かから迷惑な電話が入っているのかと思っていたら、
妹娘が、
「恋人やと思ってる人の電話が拒否になってるらしいわ」

唯一一人でも行けるところのパチンコ店で出会った男性、
話すようになって、帰りに車で送ってもらったりして、
(送ってもらうと言っても、すぐ近くに家があるので)
仲良くはなっていたのだけれど、恋人というのは、ちょっと違う。
私の目から見れば、そうなのだけれど、娘は、世間が狭くて社会経験がないから、
どう言えばいいのか、ウブ、この言葉が当たっているのかなと思う。
私の恋人だと、妄想してるという感じだった。

妄想というと、娘がかわいそうかな。
嬉しさの中で、空想が膨らみすぎているという感じでいいのかも。
夢を現実としたい願望に、追い越されているというところだと思う。

「付き合ってください」
そんな意思表示を冗談めかして言ったらしい。
冗談めかしてというのは、いい加減な感じではなく、
娘としては、必死の意思表示だったのだと思う。
答えは、「いいです」だったらしい。

ところが、この「いいです」の返事の翌日から、
彼は、毎日来ていたパチンコ店に姿を見せなくなった。

娘が普通に生きてきた38歳の女性なら、
「振られたんやな」で、終わった話。

娘の夢の中では、きっと、映画に行ったり、
遊園地に行ったり、美術館に行ったり、
いろんなデートを空想していたのだと思う。

彼が来なくなってから、もう数ヶ月経っているのがけれど、
「もう、あきらめたほうがええ」
「やめとけ、嫌がられてるんやから」
そんな言葉を、娘にかける勇気は私には無いものであり、
「まあ、そのうち、来るやろ」
「負けがこんで、来られへんのやろ」
こんな言い逃れ的な慰めを発している。
あかんなあと思いながら。

38歳なりの考え方と、病気になる前の18歳くらいの常識が入り混じった娘であり、
普通に過ごしていれば、それなりに恋人もできたろうし、
結婚もし、子供もいたのだろうと思う。

毎日、晩御飯を作り、弟の弁当を毎日作ってやり、
洗濯も毎日し、干した洗濯物を丁寧にたたんでいる娘。
親ばかがゆえかもしれないけれど、小さいときから可愛くて、
病気になった二十歳ころは、美人で鼻が高かった娘だったのに。

「私は、耳が悪いから、普通の仕事は出来ないから、漫画家になる」
そんなふうに言っていた娘を、普通の世界に導いてやれなかった私を、
自身、情けない親だと思う。

妹の息子を、自分の息子のように慈しみ、
強迫と闘いながら、おしめを変えてやり、
抱きながら寝かしつけている娘をみながら、
娘の不憫を恨めしく感じ、
年老いていく自分を責める毎日ではある。

「わたし、何も悪いことしてへんのに」
そんな娘の声が、不憫に思う心とともに、頭の中で聞こえる毎日。




最近の記事

最近のコメント

月別アーカイブ

カテゴリー

最近のトラックバック

カウンター

プロフィール

一人の父親

Author:一人の父親
強迫性神経症(強迫性障害 | OCD)と闘う父親の日記。画像は娘が描いたものです。

囲炉裏端(仲間の集い場) 

ブログ内検索

RSSフィード

リンクと読んでいるブログ


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。