強迫神経症 | 強迫障害 | OCD闘病記

強迫性神経症(強迫性障害/OCD)の娘と向き合う父親の体験記

696.先輩の訃報

2017.09.28 [ Edit ]

9月23日24日、伊勢の大会に参加していた。
70歳代と、60歳代がエントリーしていたので、
遠征の手配を任されてる俺は、
70歳代には83歳の選手2名を含め、高齢者が多いので、運転手付きのバスを手配した。
行きのバス車中、大いに賑やかで、老人達の修学旅行の雰囲気いっぱい。

ボランティア添乗員の俺は、最前列。
前の席に座るのは、だいたい真面目な方で、
後ろの席は、だいたい、いつも楽しそうな不真面目組。
俺は、普通なら後列なのだが、最近、この身体の麻痺状態から、
真面目な事務局としての参加を心がけている。

隣の席に、今年70歳になられた先輩二人、
海水を真水に精練する会社を経営されている方と、産婦人科のお医者様。
時々聞こえてくる会話は、楽しそうだけれど、ちょっと自慢話ふうのもの。
なので会話には、入らなかった。

お医者様の方は、表現はおかしいかもだが、
俺を慕ってくれている人で、(6つも上の先輩、それも医師の方が俺を慕うなんて変な表現だが)
俺が、こんな身体になる前は、そこそこサッカーが上手な方だったので、
そこに、ちょっと憧れみたいなものを感じていただいてたのかなあと思っている。
これこそ、アホな自慢話かな(笑)。

山科の駅前のマンションのワンフロアを借りて開業された時も、
クリニックを見に来い、遊びに来いと誘ってくれた。
娘の病気を気にしてくれて、いっしょに悩んでくれたり、
遊びに来いと連絡をくれて、何度も昼をごちそうしてくれた人で、
俺の数回の入院時も、忙しい方なのに、必ず見舞いに来てくれた人だった。

俺と、その医師が、そんなに親しい付き合いをしていたことは、
クラブのメンバーは知らないと思うが、実は、かなり親しかったのだと思う。

9月23日、伊勢の会場にバスが到着し、
その日は、医師の先輩とは、ほとんど話さず、
俺は、60歳代の試合会場のグランドへ、
彼は70歳代の試合会場グランドへと別れた。

試合が終わって、着替えていた時、
70歳代の先輩から、俺の携帯へ電話が入った。
「Iさんが、試合中にグランドで倒れたんや」
「救急車で運ばれたんやけど、手もつかずに突然前のめりに倒れて、呼吸も、脈も無い状態や」と。

10年前に、俺の同級生がグランドで倒れて亡くなった状況と同じなので、
「ひょっとすると」と、心の中で、悪い方向に考えてしまったが、
心臓マッサージで、「心臓が動き出せば笑い事になるわ」と考え直したものだったが、
病院に付き添った先輩からの、その後の連絡で、
「亡くなった」と。

なんとも言えない、脱力感みたいなものに襲われながら、
70歳代の方たちの、とにかく試合スケジュールはこなそうとの決定にしたがって、
試合後、全員で収容されている病院に全員で向い、お別れの挨拶を全員でさせてもらった。

その夜は、彼の分の陰膳を宿が用意してくれていたので、
彼といっしょに、いつもの宴会をし、
最後に、遠征での決まりである、琵琶湖周航の歌を、
彼の陰膳を中央にして囲み、メンバー全員が肩を組んで合唱した。

メンバーは、口々に、「グランドでサッカーしながら死ねるなんて幸せやで」と。

先生から聞いている話では、
中学生時代をアメリカ留学で過ごし、
帰国して京大医学部に入り、医師としての経歴を積み、開業して・・・
息子さんは東大の医学部を卒業して、病院で同じ産婦人科の修行をし、
来年には、先生のクリニックに帰ってくるんだと。

素晴らしい経歴、うらやましい人生。
きっと、そうなんだろうけれど、I先生にもきっと悩みはあったんだろうなと思う。
でも、幸せな人生やなあと。

うらやんで、卑下することは無いわ。
仲間も友も、たくさんいるし、子供達とも仲良く暮らせている。
貴族と民の違いはあるかもやけど、堂々と生きればええねん。

うつむくこと無く、堂々と生きよう。

先輩の訃報を流しながら、そんなことを考えた。
















695.心よ、折れずに走れ

2017.08.14 [ Edit ]

サッカーから離れられない、離れたくない俺。
もう64歳になるのだから、辞めてもええんやけど、
と、口では言いながら、しがみついている。

同じクラブにいる親友とは、中学校からずっといつも一緒にプレーしてきたし、
50年以上の付き合いになる。
娘の病気で会社を辞めたときも、
「何かせんとあかんで」と、キムチの販売を一緒にしよかと誘ってくれたし、
病気になって入院しても、一番に見舞いに来てくれた。
40歳になって、このクラブに入ってから知り合った仲間もたくさんいる。
120名余りのクラブの仲間、先輩も後輩もありがたく支えてくれている。

盆の一日は、この3年、隣の京都のチームとの親善試合。
京都のチームの方々も、いろんな遠征先の試合会場で顔を合わせると、
「ずいぶん動けるようになった様子やなあ」
「歩いてるのを見てると、普通の人みたいや」
あたたかい、ありがたい言葉をかけてくださる大切な仲間たち。

13日に3回目の親善交流を70、60,50,40,各年齢のメンバーでの試合をした。
サッカーにしがみつけているのは、
なんとか皆が楽しんでくれるよう裏方で運営しているからかとも考えている。

プレーしたいけれど、麻痺が動きを邪魔するので、
迷惑になるかなと我慢している。

「試合出たらええぞ」と声をかけてくれる先輩方。
ありがとうございますと甘えて1試合フルでなくハーフ出してもらった。

高校の時、コーチにきてもらって、県大会で優勝させてもらった先輩、
大学の時にインカレで優勝し、日本一の経験がある先輩。
神様みたいな先輩である。
このクラブに入ってからの何度かの遠征でチームメイトとして旅を共にした時、
「俺はな、お前のことが可愛いねん」
二人きりになった時、そんな温かい言葉をいただいた先輩。

試合の合間に、その先輩の横に座って話していたとき、
「すいぶん動けるようになったでしょう」と言うと、
「よかったなあ」と喜んでくださった。

今年70歳になられた先輩と、
いっしょの70歳代のチームでもゲームに出させてもらったので、
その試合中の私の動きを見て、
「お前はパス出しのタイミングが早いから、十分役にたってるわ」
「ただし、70歳代の話やぞ」
「60歳代では、やっぱり瞬間的な動きは出来へんし、守備的な動きは無理やから、
 チームメイトに迷惑がかかるというところは、認識せんとあかんぞ」

「はい、そうですね」と答えたものの、
「迷惑がかかる」「迷惑がかかる」「迷惑がかかる」
この言葉が、耳の中で反響したように止まらなくなって、
しばらく、一人の世界に入ってしまった。

認識はしていても、辛い現実の話。

そのあと、60歳代のキャプテンの先輩に、
「迷惑がかかること認識せいよって言われましたわ。」
「ちょっと、落ち込んでしまいましたわ」
と、笑いながら話したら、
「そういう人と同じチームで試合して、カバー出来ることも、チームプレーやからな」と。

二人の先輩、双方とも、まったく悪気はなく、温かく言ってくれてるのは解っているのだが、
今度は、60歳代の先輩の言葉が、耳の中で輪唱してしまい。
「そういう人」なあ、「そういう人」かあ。
家に帰ってからも、シャワーを浴びている時も、
「迷惑がかかる」と、「そういう人」という言葉が、聞こえてきて、
どんどん気持ちが落ち込んできて、
「あかんあかん、気にしたらあかん」と、自身に言い聞かせ、
処方してもらっている鬱病の薬を飲んで寝た。

疲れていたので、なんとか寝られたのだけれど、
朝、目が覚めても、二つの言葉は、まだ耳に残っていた。

ただ、冷静に考え、冷静に受け止めれば、
自分が健常で、「そういう人」とプレーをしていても、
「迷惑をかけられてる」意識は持ちながら、いっしょにプレーするやろなあと思うやろうと。

「しゃあないがな」と、自分に言い聞かせ、
トイレに行くときに家の廊下を歩いても、
フラつきながら、壁に当たってる自分を振り返ってみて、
もう一度、「しゃあないわなあ」と、、ひとり、小声で呟いていた。

ただ、70歳の先輩が、「迷惑がかかると認識せいよ」の後に、
私がうつむいているのを見逃さず、
「もう一花咲かすつもりで頑張れ」
「まだまだ出来るわ」
と、言ってくれたことを思い出して、振り払って頑張り続けようと思う。

折れてないで、頑張れ、俺の心と身体。

694.悔しさの視線

2017.08.07 [ Edit ]

例によって、孫を連れてJRの駅へ。
JRと京阪電車の駅が交差しているので、
駅の裏にクルマを停めて、駅前の京阪電車の踏切見物。

妹娘にクルマに乗せられ家に来ると、
私の所に走ってきて、
「カンカン行こう」と。

カンカンは踏切のこと。

すっかり優しくなったマーロンブランドは、孫の言いなり。
駅のエレベーターに乗り、駅の改札口を横切って、踏切へ向かう。

「キップ買うの」
「電車乗るの」
今日は、踏切より、電車に乗りたいらしい。

京阪電車で次のJRの駅まで行き、
往路はJRに乗り換えて帰ってくるルート。

階段の苦手な私は、エレベーターでホームへ。
ホームで電車を待っているとき、
ホームから見えるビルの三階に、
娘が10年ほど通った精神科のクリニックがある。

お世話になったんやけど、ちょっと複雑な感じ。
なんとなく、死んだ親父に教えてもらった歌が頭に浮かんだ。
孫を椅子に座らせながら、ぼんやり医院を眺めていた。

” 勝ってくるぞと勇ましく、誓って国を出たからは
 手柄立てずに死なりょうか
 進軍ラッパ聞くたびに、まぶたに浮かぶ旗の波

 弾も兜も銃剣も、しばし露営の草枕
 夢に出てきた父上に
 死んで帰れと励まされ
 覚めてにらむは、敵の空”

「露営の歌」だったと思う、親父に教えてもらった軍歌。

医院の窓を見ながら、出てきた歌。
特に、「覚めてにらむは、敵の空」のフレーズが強烈に浮かんできた。

お医者さんは、けっして敵ではないのだけれど、
あの医院に通いながら、
「なんで、こんな病気になったんやろ?」
「悔しいなあ」
そんな悲しさ、そんな悔しさが、突然よみがえってきて、
浮かんできたフレーズが、
「覚めてにらむは、敵の空」だった。







693.一寸の光陰

2017.07.03 [ Edit ]

最近、孫と二人で公園で遊んでいる時、
電車と踏み切りが大好きな孫を連れて、踏切を通過する電車を見に行っている時、
よく、ゴッドファーザーの一場面が思い出される。
思い出されるというより、しょっちゅう、頭に浮かぶ。

マーロンブランドの、”ドン コルリオーネ”が、
孫と二人で畑にいるとき、倒れて亡くなるシーン。

脳梗塞の後遺症の麻痺のために、孫が突然走り出す時などに、
危険回避の瞬間行動が取りづらく、
悔しいというか、哀しいというか、
惨めなというのが正かもしれない、そんな時。

なんとか、孫の安全を保ちながら、
「こいつが、いくつになるまで、生きてられるんやろ?」なんて考えてると、
マーロンブランドが頭の中に現れる。

51歳で会社を辞めた時、
娘とともに生きようなどと意気込んでいた時は、
こんな気持ちになる俺は、想像もしなかったもの。

マーロンブランドの、老いた”ドン コルリオーネ”と友達になるなんて想像もしなかった。

まあ、でも、時間は止まらない、止められないもの。
仕方のないこと。
受け入れることを、訓練していこうと思う。

いろんな過去の思い出を、光と陰で頭の中によみがえらせながら。



692.トンネルの出口の灯り

2017.05.27 [ Edit ]

二十年、歩いて歩いて、ぼんやり見えてきたかな、
トンネルの出口の灯り。

誰に言うとも無く、
「トイレ行ってから、風呂入らんでも、なんとか我慢できてる」
「これって、どんなに楽なことか」
娘が、大きめの独り言のように呟いた一言。

ぼんやり、寝ころびながら聞いていたので、
なんとなく、ぼんやり耳に入ってきたのだが、
「えっ??」
続くとええなあ。
なんとか、平気が続いてくれよ。

それについては、話に触れずにいました。

最近、必死にならずに、触れずに見守るというか、
気づかないことを、私のスタイルにしている。

どうしてということもないのだが、
疲れたからというのでも無く、
無関心になったのでもない。

娘は、冷たくなったと感じているのかもしれないけれど、
けっして、そうでは無く、
まあ、うまく言い表せないけれど、
この、うまく言い表せないというところが、
スタイルとして定着させたいのかもしれない。

まあ、でも、うすぼんやりと、いろんな灯りが、
トンネルの出口に近づいているように、
感じさせてくれているように思う。


691.”ジン”との別れ

2017.05.22 [ Edit ]

17年間、家族の一員だったダックスが、天寿を全うした。

洗濯物を取り込んでいた娘が、2階から早足で階段を降りてくる音。
もう長く、「どうしたんやろ?」のドキドキ感は無いので、
のんびりテレビを見ていたら、
悲壮な声で、「父さん、“ジン”、死んでるみたいや」。

二三日前から、エサを食べなくなり、昨日は水も飲めず、
息子の部屋で生活してきたダックスの“ジン”を、
一階に降ろしてきてやらんとあかんなあと相談していたものだった。
段ボールの箱で、介護ベッドを作ってやったので、
今日から、これで寝さしてやろうと。

急いで、麻痺の不自由な左足に命令しながら二階の息子の部屋へ行くと、
穏やかな顔で、横向きに寝ている“ジン”は、息をしていなかった。
身体を触ったら、まだ温かくて、臨終の直後だったのだろう。

息子が、入れ墨を手術して消し、やくざ組織と縁を切り、
不良仲間とも決別して、住み込みで親戚の工場に働きにいって、
クルマの免許を取得したので、家から通うことになった頃。

17年前なので、平成12年やったんやなあ、
友達が一瞬で誰もいなくなり、寂しかった息子がダックスを買ってきた。

なんとか、息子の不良を直そうと、息子のためにハスキーを飼い始め、
ところが、ハスキーの面倒をみるのは、娘の役目になっており、
「おまえ、ちゃんと面倒みれるのか?」と言いながらも、
なんとか、真面目に働いてくれるならと、
ハスキーの“ゲン”の弟として、歓迎して家族になったダックスだった。

その後、息子は”ジン“を可愛がり、
工場に通うのに、クルマの助手席に”ジン“を乗せ、
毎日、いっしょに仕事に通っていた。

何に向かって尖っていたのか、
これも私に多くの責任があるのだろう息子の不良。
これを、穏やかにしてくれた二匹の犬には、大きな感謝をしている。

息子はもちろんだが、
娘の病気に対しても、二匹の犬たちは、
無言ではあるが、たくさん助けてくれたなあと感謝している。

娘が泣きながら、
「“ジン”は、何の苦しみを持って、逝ってくれるんやろ?」
こうつぶやいた。

ハスキーの“ゲン”が亡くなった時は、
強迫のひどい時だったので、
切に「持って行ってやってくれよ」と、心で言っていたのを思い出す。

段ボール箱を買ってきて、花を敷いて棺を作ってやって寝かせ、
一晩、通夜でおいてやって、翌日に火葬にしてやり骨をひらった。

“ジン”の骨を拾いながら、
おまえが来た時は、
仕事も、息子のことも、娘のことも、
たくさん背負っていたけど、必死で頑張ってたなあ。

今は、背中が、ずいぶん軽くなって、
肩に力を入れることが、少なくなったわ。
すべてが解決したわけでもないし、
苦しいこと、悩みが消えたわけでは無いけどなあ。

達観してるのでも無い、
達観のようなものを、するべき歳になったんやろう。
頑張っても、俺も、もう出来ることが限られてきたからかなあ。

まあ、でも、もうちょっと、頑張らんとあかんから、
見守っててくれよ。

そんなことを、”ジン“にお願いした。

690.諦めんとこ

2017.04.05 [ Edit ]

春の香りがしてきたなあと思ったら、
桜の蕾が、早くも薄赤くなって膨らみ、
もう幾日かで、薄赤が真っ白に変わり、
あっと言う間に花の吹雪になって、
リハビリの道を、白まだらの道に変える。

カックン歩きを見られるのが嫌で、
夜中のリハビリ散歩をしているが、
もう、手をトレーニングウエアの袖に隠さなくても、
手は冷たくならなくなって、
どこか、嬉しいような気分での散歩が出来る。

道道の家や景色が、
余裕で見られるようになっていることに気づいた。

少しの温度変化が、大きく感じを変えるもの。

そんなことを考えながら、
寒かった時より、たくさんの筋肉トレーニングに精を出す。

腰痛の為に、後退してしまった麻痺症状も、
かなり前の良かったというか、マシな状態に戻りつつある。

毎日、右足の動きを、麻痺の左足に教えてやりながら、
リハビリ散歩、リハビリ駆け足を続けてるのだが、
これを気にしすぎるとあかんのかなあとか、
もっと解放してやって自然に動かしてやる方がええのかなあとか、
試行錯誤の自己流リハビリ。

まあ、でも、歩いている姿は、もう、普通の人やでと、
自分でも思えるほどに回復してるんやから、
あながち、間違っているわけでもないやろ。

1年がリハビリ効果の限界だと言う主治医の意見は、
きっと、リハビリで求める効果を、
ある程度で満足し、ストップしてしまうことがほとんどやからやないかなあ。

俺の自己流リハビリ方を、時系列的な文章にして、
たくさんいるだろう同じ脳梗塞の後遺症仲間に教えてやろうかななんて考えながら、
まだまだ、サッカーを満足に近づけたく、
走れるから、止まれる、蹴れる、フェイントも・・・
まあ、でも、なかなか思うようにまでは難しいなあ。

「諦めんとこ」
頭の中で、呟きながら、
とにかく、孫と散歩してるときに、
急に走り出しよって、そこにクルマが走ってきた時、
さっと、危険回避してやれる機敏さを身につけたいなあ。
身につけるというより、戻りたいということか。

とにかく、まあ、とにかく、まだまだ、
「諦めんとこ」

689.脳梗塞からの帰還

2017.02.19 [ Edit ]

二度目の脳梗塞から二年が経過。

動かないイライラから、鬱病になったり、
「走れるようになったから、試合に出してくれ」と、何度もサッカーの同じ場面の夢を見たり、
現実を受け入れられない自分との闘いが続いていたが、
最近、やっと、少し、落ち着いたかなと思える。

今日、昨日と、サッカーのクラブの役員作業、
事務局としての役員改正や、新年度の協会登録作業が、
今までどおりのペースで進められる。

それまでは、「もう、やめてしまおう」とか、
「クラブを退部しようかな」とか、
サッカーだけでなく、他のことでも、
「やらんとあかんこと」を先延ばしにして、ダラダラが当たり前だった。

脳梗塞の主治医から、
「脳梗塞のリハビリが効を発するのは、半年、もしくは一年と言われていますが、
 貴方は、二年で少し走れたとか、私にも、学会でも参考になるくらいです」
そんな褒め言葉をもらって喜んでいるところもあるんだと思う。

ただ、ちょっと動き過ぎで、ヘルニアの腰痛が出て、
約半月、寝たきり生活をした結果、
先週の日曜に、サッカーの試合に、少し出場したら、
麻痺の足が、発症直後ほどに動かず、
仲間からも「あれっ?」と思われるような動きしかできなくて、
自分なりの判断をすると。

脳梗塞で収縮、緊張状態の筋肉をリハビリでなんとかほぐしていたものが、
動かさないと、元に戻ってしまうということなんやろなあと。

「賽の河原の石積み作業を、鬼が出てきて蹴飛ばしていかれたんやなあ」と、苦笑いしながら、
もう一回、一からのリハビリをやり直そうと思っている。

これにしても、「出来たんやから、また、出来るわい」と思えるところが、
ちょっと、立ち直ったのかなあと自己満足しているところ。

娘の強迫も、このように考えられたらええのになあと思うけど、
どうしようもない、コントロールの出来ない苦しみは、
難しいものなんやろうと思うし。

こんな無責任な感想を言ってると、また、娘に、
「父さんは、わかってくれへん」と、怒られるわ。

688.63歳、新年の反省

2017.01.13 [ Edit ]

1歳8ヶ月になった末娘の息子が、
最近、駄々をこねるようになった。

エスカレーターに乗るのが好きで、
買い物に連れて行った時にエスカレーターが目に入ると、
一目散に直進していく。

足を挟むような事故を起こさせないか、
私自身が心配でもあるし、
何度も上ったり下ったりを繰り返すのに、
腰の悪い私が、拙い孫の両手をつかんで付き合うのにも限界があり、
「もう、これで終わりやぞ」と言っても、
まだ話せない孫には伝わらず、嬉々として繰り返そうとする。

娘がいる階に到着したところで抱きかかえて中断しようとすると、
フロアに倒れ込んで、泣き出してしまう。
駄々をこねる作戦にでるわけである。

それでも、私は、ニコニコしながら、
次の日に、腰痛で寝たきりになろうと、
痛くなり始めた腰を気にせず、その作業を続ける。

俺の子供たちは、こういう駄々のコネ方は、まったくしなかった。
それは、私が異常に厳しい父親だったからで、
「世間様よ見てみろ、俺の子供は、常識ある子供たちで、
 我慢することを知っているんだ」
そのように、カッコつけたかった父親に育てられたからである。

私は、子供が大きくなるまで、その育て方、
厳しさに、自信を持っていたし、満足していた。

息子が不良少年の仲間になって、
高校を中退し、入れ墨を背中一面に入れてきた時さえ、
自分に反省もせず、俺の育て方に自信を持っていたし、
問題を解決して、いい方向に向ける自信を持っていた。

姉娘が強迫症を発症し、
いっしょに散歩して、向き合うようになった時に、
「いつか、父さんを殺そうと思っていた」
そう、娘から言われた時くらいから、
私の自信を持っていた厳しさというものに、
やっと、少しずつ、間違っていたのかなあと、
反省をし始めたものだと思う。

若い父親が、粋がってカッコつけすぎた犠牲者なのかもしれん、
俺の三人の子供は。
そんなふうに考えるようになったのは、つい最近のこと。
全否定はしていないのだけれど、自分の持ってきた信念に。
でも、全否定してしまっても、ええのかもしれん。

幼い子供たちを、恐怖でコントロールして、
俺の子は、我が儘は決して言わないし、
親に逆らわずに、言うことを聞きよるんや。
どうだ、世間様よ。
そんな滑稽な、一人芝居をしていただけなのだと思う。

自分を否定したくないので、
心の中でだけ反省してきたこと。

まだ小学校の高学年だった息子に、
あれは、高野山に子供たちを連れて行ったクルマの中、
「日本で一番雨の多いところはどこや?」の質問だったと思う。
答えられない息子に、鬼の形相で怒った時、
姉と妹に泣きながら抗議されたこと。

「父さんは、いつもそうや、
 鬼みたいに怒る、弟がかわいそうや」
もっと、具体的な言葉で抗議されたのだが、
泣きながら強く抗議されたことを、しっかり覚えている。

姉娘が、毎月買ってやっていた学習ドリルを、
白紙のまま捨てていたのを見つけた時、
泣き叫ぶ娘を容赦せずに、叩き続けたこと。

発症してからの娘に、その他にも具体的に、
いろいろと、責められてきた。

悪いことをしたと思う。
ひどい父親だったと思う。

今、孫をかわいがって大切にしている爺ちゃんになって、
やっと、自分の馬鹿さに思いを馳せる。

「父さんは、私が嫌いやったんや」
そうまで言わせてしまう父親。

でも、子供は愛してやまない存在であることは、
三人が生まれてきてから今日の日まで、
揺らぎ無い事実ではある。

「子供にも人格がある」
「暴力は、絶対反対」
そんな言葉に、真っ向勝負をいどんできた私。
私を、自身が全否定してやるのは、すこしかわいそうだとは思うが、
穏やかに接して解らせてやってきてやればよかったなあと、

63歳になって、ようやく、真の反省をしている新年です。






687.人生の正解

2016.12.20 [ Edit ]

娘と夜中に録画しておいたドラマを見ていたとき、
こんなセリフがあった。
「政治に正解は無く、都度、選択があるのみで、選択を正解にする為に努力をする」

私は、政治という言葉を、人生に入れ替えて考えてみた。

振り返った60年、多くの不確かな選択をしてきたなあと。
「良かれと思って」
すべての選択は、良かれと思っての選択なのだが、
正解にするには、なかなか難しくて、
努力も不足、運も不足、
選択をした時点での間違いもあるのだろうし、
ひょっとすると、正解が無いのでは無くて、
選択した時点での正解もあるのかもなどと、
哲学と言うより、偏屈と言った方が近いだろう屁理屈をドラマをみながら考えていた。

ドラマを見終わった後も、
選択、たくさんしてきたけど、どんな選択があったのかなと、
大きな、重要な、軽い、細かな・・・・
具体的に、あれ、これと思いついても、
頭の中でも、並べるのはやめておくことにした。

すべてをまとめて、正解がどれなのか、
選択の種類をすべて整理して、採点をして・・・
失敗、成功、後悔、喜び、幸せ、悲しみ、怒り・・・

寝てから考えよう、
ではなくて、
棺に入ってから考えたらええのかも。

してきた選択を振りかえれる歳にはなってきたけれど、
答えの出ないまま、まだ歩き続けるものなんだろうと。

人生の長い旅





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Author:一人の父親
強迫性神経症(強迫性障害 | OCD)と闘う父親の日記。画像は娘が描いたものです。

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