強迫神経症 | 強迫障害 | OCD闘病記

強迫性神経症(強迫性障害/OCD)の娘と向き合う父親の体験記

711.今年の年賀状

2019.02.18 [ Edit ]

この歳になると、
いただく年賀状の中に、
「本年をもって、年賀状を失礼させていただきます」
というような文面を目にすることが多くなった。

自分がこの歳になっても関係ないようなものだが、
やはり年代が近い人との年賀状のやり取りが多いので、
「この歳」は大いに関係のあるものだと言える。

会社つとめの現役時代は、
すべての年賀状を手書きしていて、
「印刷して出すくらいなら、必要無しや」
なんてことを周りにも言っていたので、
後輩達には気を遣わせた、うるさい男やったなあと思う。

まあ、今でも、サッカーの後輩達だけで無く、
先輩方にも”うるさい男”やなあは、継続しているものかもだが。

退職してからは、怠惰な男になってしまって、
二、三年は印刷したものに宛名だけを手書きし、
一言コメントだけを書いていたが、
その後は、自分の昨今の思いみたいなものを表せる文章を、
パソコンで入れたものに変更し、毎年、それを続けてきた。

「粗にして野なれど卑では無し」
「おもしろき、ことも無く世を、おもしろく、すみなすものは心なりけり」
等々、そんな文言を書いたものを送ってきたのを覚えている。

文言が、目上の方に失礼にならないようにということに気をつけて、
送るすべての人に、解ってもらえるような文を選んできた。
自分の今の心境が伝えられるような文言を選びながら。

毎年、娘が楽しみにしてくれていて、
「父さん、今年は、何を書いたん?」って。

そんな継続で、毎年、ネガティブにならないような文言を選んできたが、
終末を感じながらなので、気をつけないといかんと思う。

そんな今年の年賀状に選んだ文言は、
吉川英治の宮本武蔵の中の一節。
武蔵が柳生石舟斎に試合を臨んで庵を訪ね、
待たされていた一室での出来事。

石舟斎は、試合を断るために、
一輪の花のついた小枝を答えとして女中に持参させる。
武蔵は、その小枝の切り口を見て、石舟斎の剣の技を見抜き、
試合を諦めて、庵を辞すという逸話。

それを題材にした年賀状の文面は、
「切り口のみで、すべてを語れるような人を目指してきましたが、
 この歳になっても、なかなか、その域には達しられず、
 これから先も、修行に励みます。」
そんな文面にした。

これが、最近の私の心境を表した、
今年の年賀状に書いた文言。

娘が、
「父さん、これ宮本武蔵やなあ」
「今年のは、なかなかええわ」と、
ちょっと、褒めてくれた。

そして、「これ、私にも送って」と、
我が家の住所に娘の名前を書いて投函した。

あと何年、修行を続けられるものかは分からないが。









710.悔恨、懺悔

2019.01.11 [ Edit ]

そろそろ終末だと、日々考えている私。

なんとか平静を装い、
フラフラ歩かないように気をつけ、
歩いている途中にコケてしまわないように気をつけ、
今まで通りの自分を周りには見せているが、

自身の中では、
風呂の中で、逝ってしまうのでは、
ベットから起きてこずに、寝ながら逝くのでは、
別に脳梗塞の後遺症以外に問題があるわけでは無いのだが、

毎日の生活の中での危険因子みたいなものがたくさんあって、
人には一々、こうですああですなんて言えないし、
家族が気づく訳でも無いけど、
日々、いつ逝ってしまってもおかしくない状態なのかなと考えている。

たぶん、年末から再発した座骨神経痛が原因で、
脳梗塞の麻痺の歩きにくさに加えて、
太腿の外側の付け根部分から腰の全体に熱い感じの痛みが続き、
歩き始めて数歩のところで痛みが激しくなり、
ほとんど歩けない状態があるのが、
きっとそれが、弱気を増幅させているものなのだろう。

二度目の脳梗塞の麻痺で、まともに歩けなくなってからも、
「なんとか、もう一度」と、自己流のリハビリを重ね、
ほとんど走れない、ほとんど蹴れない、
そんな中で、「パスは出せる」その微かな自信だけで続けてきたサッカーも、
もう二ヶ月、参加できていない。

「お父ちゃん」のことを思い出したり、
弱気の頂点なのかもなあと半泣きの苦笑の毎日。

「しっかりせいよ」と自身に声かけするも、
自身のうちでも空虚さが勝ってしまう。

このブログを書き始めたとき、
娘の病状を医師に伝え、
解ってもらいたいための備忘録として書き始めた。

毎日、書いているとき
「どうしたら、どうしてやったら」
そればかり考えて書いていたように思う。

一度目の脳梗塞は、
そんなに身体にも心にも打撃は無かったように思うのだが、
その頃から、このブログも毎日書くことはしなくなったし、
原因不明の身体の痺れが発生して、
サッカーも、その頃から、まともにプレー出来なくなった。

月二回くらいから、記事が広告画面になったら、
それを消すために書くようになった。
ということは、月一回になったということ。

この頃から、なんというか、肩の力が抜けたというか、
このブログが、自分のための回顧録みたいになったかなあ。

二度目の脳梗塞以後、
死を身近に考えるようになってから、
過去に書いてきたものも含めて、
このブログを俺の遺書にするという発想になった。

けれど、これを遺書にするには、
正直に言っていない事柄があって、
それを正直にここに書いておこうと思う。

娘が中学3年生の時、
信楽にあるデザイン学校(窯業関連のデザインなのかな)
そこに行きたいと、
私のその時の提案はというと、
家から遠いので通学が大変やから他の高校を選べ、と。

娘は、自分の耳が聞えないから、
耳が聞こえなくても生きていく道を選んだものだったのだと、
自分の将来を真剣に考えたものだったものを、
阻害した父親が、そこにいたのだった。

大きな後悔を、実は今もしている。

その後の娘の人生を考えたとき、
涙が出てくるような取り返しのつかない大きな後悔、
その高校に行ったからどうなったということではなく、
そこへ通わせてやればという、私の全般の考え方、
そのものすべてに、私の思考すべてに後悔がある。

息子が工業高校に進学したいと言った中学3年、
私の提案は、工業高校へ行って、目標を狭めず、
普通科に進学して、3年間考えて進路を決めろ、と。

自分の能力で行けるところを教師と相談した上だったのだろう、
息子の中で、精一杯考えたものだったのだろう、
それを、安易に自分の経験に基づいて押しつけた、
この時も、人生の道中に立ち塞がった父親がいた。

大きな後悔をしている。

息子が不良になって、背中に入れ墨をして、
娘が神経症になって、今も必死に闘っている。

その入口に導いてしまったのは、実は父親の私で、
申し訳なく思っている。

しかしながら、今の娘と息子が、最悪だと考えている訳では無い。
娘は、毎日、掃除をし、選択をし、
寒い中でも家族全員の洗濯物をといれてたたんでくれ、
家族の食事の準備をしてくれ、
弟の弁当を毎日作ってくれている。
弟は、毎日朝早くから、工場勤務に休まず出かけてくれている。

「素晴らしきかな人生」
そう思わない私は、贅沢なのかもと考える。

サッカーの試合に行った時などで、
「俺の息子、医者やねん」
「娘は、教師やってるんや」
そんな話を仲間から聞いた時、
羨ましがる俺がいて、
情けないような気持ちになる。

脳梗塞で入院してたとき、
心配そうで、不安そうな顔をしながら、
不潔で来たくないはずの病院に、遠い距離を自転車で来てくれた娘。
工場の帰り道に、病室をのぞいてくれた息子。

金は無くても、会話と笑顔が時々あれば、
それ以上のものは必要無いのかも。

「素晴らしきかな人生」
娘、息子が、これからの人生の中で、
こう思いながら、生きてくれるかも。

俺に、残してやれるものは、何一つ無いが、
「人を思う心」
こんなようなものは、ひょっとして少しは残してやれるのかも。

進学のことだけで無く、他にもたくさん悔恨はあるし、
懺悔することは、数限り無いものだろうけれど、

娘も息子も、下の娘も、
俺の三人の子が、

「お父ちゃん」を懐かしく、
有り難かった存在、愛すべき存在として思い出してくれるならば、

それは、俺にとって、きっと、
「素晴らしきかな人生」として刻まれるものなのかと思う。












































































709.お父ちゃん

2019.01.09 [ Edit ]

私は、幼い頃、父親のこと、というより、
両親のことを呼ぶ、呼びかけるとき、
「お父ちゃん、お母ちゃん」と呼んでいた。

父親が亡くなってから、もう31年になるが、
今でも時々、夢を見る。

父親は白血病で亡くなったのだが、
亡くなる直前まで病名が判らず、
大きな公的な病院に何年もかかっていたのだけれど、
倒れたり、下血したり、白血病の特徴は示していたのだが、
反対要因も多かったために、主治医の先生は決めかねておられたようだ。

その頃のことが、繰り返し同じような内容で夢に出てくる。

現実と交差しているような夢の中で、
死んだハズの父が生きていて、
心の中で、「ああ、よかった」と、つぶやいている自分がいる。
すごく鮮明に覚えている夢で、
「お父ちゃん」こう呼びかけたいけど、照れくさくて呼べない、
そんな感情すら覚えている夢。

まあ、父との会話は、ほとんど無いし、
何をしているかというところも、何も無いのだけれど、
父が死なずに、まだ生きてたと思う、
得も言われぬ安堵感を夢の中で味わい、
覚めたときに、「ああ、また夢やったなあ」と、
「ほんまに生きてたらええのになあ」と、
しばらくじっくり考えてしまう。

そんな現実と交差するような夢。

「お父ちゃん」
長いこと言葉にしていない、熱い言葉、
じんわり心が温かくなる言葉だと思う。

すでに父が亡くなった歳を6年も越してしまった自分だが、
「俺より年下になったハズやのに勝てへんなあ」
いつまでも必要な存在、
いつまでも欲している自分がいるから、
夢で生き返らせるのかなあ?

普通は、「お母ちゃん」なのかもしれんけど、
俺には、「お父ちゃん」やなあ。

こんな歳になってるのに、
なんでなんやろ?

今、もう一回、話してみたいわ。
「お父ちゃん」








708.”あるボクサーの死”から考える

2018.12.07 [ Edit ]

高校の数学の教師をしながらプロのボクサーとして活躍していた青年が、
ある日、自死を選んだ。
青年は、賢くて真面目で、律儀な性格だったようです。

故人が何を考えていたかは、推し量れないものであるし、
彼が何に悩んでいたのか、他人が勝手な推察をするものではないだろう。
ある日、瞬間の記憶が飛んでいたり、
感情や、行動を自身で制御できないような症状が発生し、
精神科の病院を訪れたらしい。

その病院の医師の診断は、統合失調症だった。

ここまで書いて、
私が見てきたことでは無いし、
親戚、知人の話ではないことを先ず明記しておきます。
BSのドキュメントを、たまたま見ての感想なので、
最初からすべてをしっかり覚えているものでは無いことを言っておきます。

ということで、続きを書きます。

医師の診断は、統合失調症で、自殺願望もあるため、
3ヶ月の入院加療を要するというものだった。

入院して予定の半分も経過していない時に、
処方した薬の効果により、症状が改善したので、
医師から、明日退院の指示となった。

ところが退院前日、彼には辛そうな症状があり、
自死願望も有った様子。
それでも、予定通りに医師は退院をさせた。

自宅に帰ったあとも、彼には辛い症状が続き、
再度入院させて欲しいと訴えたのだが、
病院は、退院してから三ヶ月経過してからでないと入院は出来ないと。
そして、その病院でなく、自宅の近所のクリニックを紹介されて通院はしたが、

退院後数日で、彼は自死してしまった。

統合失調症と診断され、彼が亡くなるまでの間、ほんの一ヶ月。

これを何故防げなかったのか、
何故、彼を助けられなかったのかという番組だった。

父親が、一人で彼を育て、大学を出し、
教師として就職し、格闘技好きでプロボクサーになった。
父親の自慢の息子だったそうだ。

まったく父親と知り合いでも無いのだけれど、
父親の悔しさが、心に重く、番組を見た日、まったく眠れなかった。

病院の経済的な要因。
加療点数による報酬のしくみ。
入院日数が多くなると、点数が少なくなっていき、
三ヶ月以内に再入院されると新たな入院の点数では無く、
継続日数になるため、病院の経営上、避けたいらしい。

そんなことだけでは、なかったと信じたいが、
彼の入院させて欲しいという叫びが届かなかったのには、
そういう要因もあったことがうかがえるのかも。

何なんやろ?

お医者さんも職業やから、
滅私奉公を強要することは、出来んわなあ。
いつも、いつも考えることでは、ある。

俺のこのブログも、最初は、娘の通院時にお医者様に伝える為に、
紙に、備忘録を記していたものだったが、
毎日の備忘録としてブログを始めたもので、
何度か、いくつか変わった病院の医師に、
「読んでください、娘の症状と、俺の対処が解ってもらえると思います」
こう訴えても、数人の医師に、こう、お願いしたけれど、
だれも、読んでくれた医師はいらっしゃらない。

文句は無いし、怒ってもいない。

でも、何なんやろなあ???

ここでも、何度か書いたことがあるけど、
風邪や怪我を治す病院と、
心の病気を治す病院を、同じ扱いにすることは、無理があると俺は思う。
風邪や怪我を治すのは、「病院」で、
心を治すのは、「心院」。
こんな、根本的に違った形のしくみが出来ないものかなあ。

そこには、お医者様だけでなくて、病気の仲間や、爺さまや、
婆様や、高校生がいてもいい、
母さんみたいな人もいて欲しい。
みんなの中心にお医者様がいて、
心の病の娘を持った、俺のような親父もいる。
そこで、みんなで、傷ついた心を包みながら治していく努力を分かち合う。

そんな「心院」、あったらええのになあ。




707.ごまめ

2018.11.02 [ Edit ]

私の知る限りの所なので、間違っているかも知れないが、
京都と、京都寄りの滋賀、滋賀県大津市あたりで使われる表現。

「ごまめ」

子供達の遊びの中で、
まだルールが理解できかったり、動きがまともに出来ないような、
小さな子供を仲間入りさせてあげる為のルールで、
何ごとも大目に見てやり、許してあげながら一人前になるまでの期間を、
猶予してあげる存在としての幼い仲間を指す言葉、
それを、「ごまめ」と呼んでいる。

今日、木曜日の60歳以上のメンバーの練習日でサッカーを楽しんでいた時、
紅白戦のゲームの中で、85歳の先輩が、俺を指して、
「うちのチームには”ごまめ”がいるから弱いな」と、
冗談では無く、苦々しい表情で、
私の方は見ずに、私に指して聞こえるように、独り言のように・・・

後輩達や、優しい先輩が、さりげなく遊ばせてくれるというか、
私がボールを持つと、真剣に取りに来ないことを、
「快く思ってないのやろうな」

元国鉄マンで、運転士だった85歳、
最近まで冬は山小屋で生活して、スキーのインストラクター、
サッカーでも80歳を超えていても、よく走られるし、
80超の老人なので上手いということも無いのだが、
そんなに下手クソでも無い。

クラブの爺さま達、あまり病気の話は聞かないのだが、
この85歳は、特に元気である。

それが故に、解らないのだろう、
「弱者への思いやり」というものが。

吐き捨てるように私にかけられた、
「ごまめ」発言。

気分の良いものでは無いが、
「まあ、しゃあないなあ」と、心の中で苦笑い。

こういう類いの悔しさは、たくさん経験させてもらってきたので、
慣れてはいるが、この動かない身体に対してのジレンマはある。

娘の耳が聞こえにくいことに対して、
世の中の人の優しくないところ、たくさん感じてきたけど、
まあ、身内や近しい人に、難聴の方がおられなくて、
理解できない人の、気づかない残酷。
これと同じことなのだと思う。

悪い人では無いのだと思う。
厳しい言葉でありながらも、
私の身体を気遣って声をかけていただくこともあるので、
どちらかというと、良き先輩だとは思っている。

ただ、健常な人は、時々、すごい残酷をしてしまうものなのだということ。

「解らんから、しゃあない」
とは言え、
深く考えれば、残酷を回避するというか、
「真の優しさ」
こういうものを持てるんやけどなあ。

「真の優しさ」
持てる人にならんとあかんなあ、俺も。

706.解ってもらえないのか、伝えられてないのか

2018.10.21 [ Edit ]

樹木希林の「あん」という題名の映画。
ハンセン病の元患者が、樹木希林と市原悦子。

この二人の名前がある映画であるだけで、
「渋い」であったり、「深い」であったりが想像できる。

詳しくあらすじは説明しないけれど、
俺の感覚で表現すると、
「軽いタッチとも言えながら、重さをあまり感じさせなくて、深く重い内容」
まあ、これは、主演の樹木希林さんと、助演の飯原悦子さんの持つもの故なのだと言えるのかも。

もっと言えば、
良い作品を観た時、観た時間の数十杯の時間を余韻に支配される。
そんな映画なのだが、演者が変わると、
きっと、このすべての感覚と表現は変わってしまうのだろう。

まったく違う話だが、
心や、身体の不自由さも、伝える側と、受ける側の感性の違いで、
解ってもらえないのと、伝わらないことが多いなあと、つくづく。

映画とは関係もないのに、
観おわった余韻の中で、ぼんやりと、そんなことを考えた。

ある精神科医が、
心を病む人は、感受性が強く、心根が優しく、気配りが人より出来ると。
長い闘病の中で、症状が過激に出るのは一時期で、
その一瞬で、敬遠されたり、怖がられたりするが、
「健常者」でも、怒ったり、強く悲しんだりする時は、異常であって、
平穏な時間と、異常な時間が交互すると考えれば、境目は、ほぼ無いものだと考えてもいいと。

まあ、そこのところも、俺の感性では、
あまり断定的な解答には、なっていないのかもなどと偏屈に考えてしまったりする。

もっと、わかりやすい例で言えば、
俺の麻痺した足でサッカーをしていると、
先輩や後輩が、いろんな有り難い言葉をかけてくれる。

「脳梗塞発症直後に見た時は、いつも転けそうだったのに、よく少しでも走れるようになったなあ」
と、言葉を選びながら、励ましてくれる人。
「ここまで回復したら、もう少しで、元に戻れるねえ」
と、励ましてくれる人。
「もう、普通に見えるわ、大丈夫や」
と、励ましてくれる人。

この上の三つの励まし。
あまり大差ないように思える、それぞれに有り難い言葉なのだが、
当の本人の考えてる不便さや、悔しさや、悲しさは、
実は解ってもらえていないと思ってしまったりしてしまうものなのである。

いや、非難しているなんてことは決してなく、
それぞれの方に、温かく、有り難く、感謝しているものなのだが、
心の内では、伝わらないジレンマ、解ってもらえないジレンマがあるものなのだ。

ただ、時々、ストンと心に抵抗なく受け入れられる言葉に出会うことがある。
どういうものかと言うより、ストンとおちるのである。

ほんまもんの樹木希林さんを感じるというようなものなのかもしれん。

そんな表現が出来る人でありたいものである。







705.人生が二度あれば

2018.09.18 [ Edit ]

俺が二十歳ころに、
クルマのステレオでよく聴いていた井上陽水の曲。
なんか思い出して口ずさんで、
ふと、気がついた。
45年前になるのだということにも気がついた。
親に思いをはせ、老人を敬う唄。

ところが、何も考えず、亡くなった父、母を思い浮かべて口ずさんでいて、
出だしの歌詞に立ち止まってしまった。

40数年前、クルマの中で大きな声で歌っていたとき、
自然に涙が出て、詰まりながら歌っていた唄の、
歌詞の中の父親の歳に自分がなっていることに気がついた。

父は今年二月で65 顔のシワは増えていくばかり
仕事に追われ この頃やっと ゆとりができた
父の湯飲み茶碗はかけている
それに お茶を入れて飲んでいる

人生が二度あれば
この人生が二度あれば

母は今年九月で64 
母の細い手 漬け物石を持ち上げている
子供を育て 年老いた母

そんな母を見てると 人生が 誰のためにあるのか解らない

人生が二度あれば
この人生が二度あれば

父と母が コタツで お茶を飲み
若い頃のことを話し合う
夢見るように・・・


なんで、この井上陽水の唄が浮かんできたのやろ?
たしかに好きやった唄なんやけど、
この間から、俺の人生、どうやったんやろ?って考えてたからかなあ。

しっかり覚えてないので、母以降の歌詞は間違っているかもしれない
なんか、ぼんやり父親の顔を浮かべながら、よく歌っていた唄。
父の生前に、口に出して言ったことは無いが、
「父さんありがとう」の気持ちでいつも歌っていた記憶がある。

自分の両親だけにとどまらず、
世の中の親、世の中の大人の人たち、
すべてに対する尊敬と心からの感謝を感じていたような気もする。

俺は、そういうふうに見られる大人だとは全く思えないし、
自分が尊敬や感謝をされるような人生は送ってきていないと思う。
まだ、どこへも到達していないし、未完成というか、途上にある身だと。
それなのに、65歳にはなっている。

鮭の一生で言えば、
産卵床のある緩やかな流れの所までたどり着いた、
人生を終えるポジションまできている歳なのに、
振り返っても、後悔、未練、後悔、未練・・・
満足という言葉が見当たらない。

死にゆく時の覚悟
そんなものは、まったく見えない
後悔、未練、後悔、未練・・・

こんなものなんかなあ 人生

まあ、まだ、もうちょっと考える時間は、残ってるか。




704.終活の始め

2018.08.29 [ Edit ]

私も知らぬ間に65歳。

「知らぬ間に」
ほんまに気づかずに60を過ぎて、身体も心も弱くなったように思う。

51歳で会社を辞めた時、
「俺が治してやる」と、娘のことを考えてた。

あの頃の俺、ほんの10数年前だったけど、
ずいぶん若かったし身も心も強かったように思う。

毎日、夕食と弟の弁当の料理をしてくれる娘は、ずいぶん良くなったと思う。
おかずに卵料理が無いのと、冷蔵庫にマヨネーズが無いことを除けば、
おかげさまで、普通に近い娘のがんばりがある。

ほとんど、私は娘を気遣わないというか、びくびく心配することも無くなった。
これは、娘の頑張りが主な要因ではあるが、
私が弱ったのもあるのかも。

先日、ねんりんピックのサッカーメンバーで練習試合を企画したが、
クラブの仲間から、クレームが出て、
仲間というのは、50年以上の付き合いがある一つ後輩。
仲間として小さな意見の違いがあったことはあっても、
真っ向から対立したことなど50年来無かったのだが・・・
そう言えば、ほとんど対立したことも無く仲良く、
後輩ではあるけど、俺が助けてもらったこと多かったなあなどと考えながら・・・

「俺、そんなに大きく間違ったことはしてないけどなあ」
と考えたものの、
夜になって寝ようとすると、俺の内部が壊れそう???
脳梗塞になって不自由な身を考え続け、気に病み、壊れそうになった時と同じ症状。

「あかん、あかん」
どうしようも無い焦燥感、不安感、悲壮なまでの哀しみのような心。

「鬱病です」と診断されて処方された薬を急いで服用。
なんとか、眠くなってくれて朝を迎えられた。

よくよく考えると、
不自由な俺を、もう一度、参加させてやりたかったから、
仲間としてのポジション探しのために、詭弁で我が儘を誤魔化したかも。

「これは、あかんなあ」
「サッカー、もう諦めた方がええなあ」
不自由な俺を、仲間は邪魔にせずに、まぜてくれているけど、
邪魔してるかも?
気を遣わせているのかも?
面倒やろうなあ。
そんなふうに、冷静に考えると、「辞めた方がええ」という結論になった。

クラブの副会長として、事務局全般、遠征手配等々、役割はあるので、
すぐに、ほっぽり出すことは出来ないけど、
引き継ぎの準備をして、クラブの運営がスムーズに続けられるように計画して、
一会員として身を置き、口出しは一切しないポジションで、練習会だけ参加しよう。

65歳、ええ頃合いかもやなあ。

「引き際」

会社では、上手く出来たけど、
サッカーでもうまくやらないと。

これって、「終活の始め」かもやなあ。

703.ワールドカップの追想

2018.07.18 [ Edit ]

サッカーを始めて、53年になる。
初めてワールドカップの存在を知ったのは、1966年のイングランド大会。

その頃の日本は、スポーツと言えば野球の頃だったので、
テレビでサッカーが放映されることも、ほとんど無くて、
もちろんニュースで流されたなんて記憶に無い。

俺が高校の時に県大会で優勝できたのも、
県の選抜選手に選ばれて国体に出られたのも、
親友の兄貴のおかげ。
その友人の兄さんに中学3年間と高校3年間、
合計6年間コーチをしてもらったおかげ。

中学の3年間は、友人と共に、
高校の3年間は、
その兄貴が、友人(弟)をサッカーの有名校に行かせたので、
俺に悪いことをしたから、高校の3年間は、
俺が進学した高校のコーチをしてやると。
(大人になってから聞いた話であるが)

その友人の兄貴が、中学3年生の時に、
連れて行ってくれた映画がある。
「ザ・ゴール」という題名の映画。
1966年のワールドカップの記録映画。

後のイエローカードやレッドカードのきっかけになった、
ペレに対する悪質なファールで、ペレが負傷してしまった場面。
イタリアが予選で負けたので、イタリアに帰った選手達が、
国民にトマトを投げつけられて立ち往生している様子。
北朝鮮が、アジア初でベスト8まで勝ち上がり、
「赤い悪魔」と賞賛されていた。

優勝はイングランドで、
ウエンブリースタジアムの表彰式では、
エリザベス女王が、選手達にメダルを授与していた。

サッカーって、すごいスポーツなんやと、
当時、世界の人口が30億人で、
10億の人が何らかの形でサッカーに関係していると。

「目から鱗」のサッカー映画だった。

日本では、野球がスポーツの中心で、
その当時、イングランドのアーセナルが来日し、
全日本と対戦して、もちろん日本は負けたのだが、
それを観た、ある野球監督が、アナウンサーに、
「手も使えないスポーツなんて」と馬鹿にした発言をして、
それに憤ってたことを覚えている。

日本のサッカーのポジションは、そんなものだった。
俺も、中学生の頃は、サッカーに対する知識を急激に吸収して、
「俺が生きている間に、日本がワールドカップに出場することは絶対に不可能」
そんなふうに思っていた。

それが、今や出場して当たり前みたいなポジションになっている。

でも、考えてみれば、1966年のイングランド大会から、
50年以上の月日が流れているわけで、
公園のグランドにリハビリに行っても、
キャッチボールをしている少年は、滅多に見ず、
ボールを蹴っている少年達がほとんどで、
こんなところで、歳をとったなあと実感させられる。

先日、優勝したフランスの若い選手達より、
俺にはデシャンのイメージの方がピンと来る。

デシャンが監督では無く、
優勝チーム(フランス)のキャプテンだった時の、
試合前のロッカールームのミーティングの様子が映されたドキュメント。
若いキャプテンのデシャンが、
今では、ダンディな白髪の渋いおじさん監督に。

サッカーの話をし出すと夢中になって止まらない。

いつまでワールドカップを観られるのだろうかと、
4年先を楽しみになんていつも考えていたけれど。

何もかも、そんな風に捉えてしまう今日この頃。

まあ、生きられるだ生きればええか。













702.ゴミ収集車

2018.04.29 [ Edit ]

俺は、家族でスーパーに買い物に行く、
子供とデパートに買い物、
子供と遊園地、
そういうことをしなくて生きてきた。
クルマで連れて行っても、駐車場のクルマで待っていたり。

先日、娘が、
「私は、海水浴場に行ったことがないなあ」と。
「父さんが連れて行ってくれたところは、必ず、砂と違って、岩場やったからなあ」と。

今考えると、アホみたいな粋がり、と言うか、、馬鹿な勘違いのカッコつけ、
そんなたぐいのアホ親父やったと思う。
無条件の親の優しさを見せたことがなかったから、
子供達を萎縮させて、心を閉じさせ、
しまいには、病気にさせてしまったのかなあと。

今日は、孫と二人でイオンモールに行ってきた。
二度ほど、イオンモールのトイザラスで、孫がゴミ収集車のオモチャを手にとって見ていたのを思い出し、
覚えてるかなと、「アイマル、ゴミ収集車、買ってあげようか?」と声をかけると、
「うん、イオンモール行こか?」と、つたない返事が返ってきた。

中学校の体育の教師に聞いた話を覚えていて、
「先生は、うちの子供にオモチャを買ってやるときに、欲しいものをノートに書き出させて、
 消去させていって、最後に残ったものを買ってやることにしている」
たしか、そんな話だった。
今思えば、めんどくさい教師の”ええカッコ話”やっただけやがな、と思う話なのだが、
自分が親になって、自分の子供に、その真似事をしたことがあった。
たぶん、父親の上から目線で、”偉そうに”子供に選択させていたように思う。

子供は、嬉しくなかっただろうなと、今は思う。
父親が、変な”威厳”を子供に見せつけただけだっただろうと思うから。

孫には、”威厳”を感じさせようとは全く思わないし、
3度目で覚えているなら、ほんとに欲しいのだろうなと考え、
連れて行ったら、陳列している場所も覚えていたし、
一目散に、「ジイ、ゴミ収集車、ここにあるよ」と、三歳前が、迷わずに駆けていった。

ジジ馬鹿な顔で満足して買ってやった。

これって、自分の子供達に、「こういうふうに、してやってたら、よかったのになあ」と。
孫と遊ぶと、俺は、日々反省やなあと苦笑い。
駄目な親やったなあと。

帰ってきて、飽きずに、長く、ゴミ収集車を動かして遊んでいたので、
やはり、二度の我慢がよかったかなあと、
これまた”偉そう”な話かなあと、ここは、微笑みかな。

ジジ馬鹿の反省話でした。






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Author:一人の父親
強迫性神経症(強迫性障害 | OCD)と闘う父親の日記。画像は娘が描いたものです。

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