強迫性神経症 | 強迫性障害 | OCD体験記・子育てブログ

強迫性神経症(強迫性障害/OCD)の娘と向き合う父親の体験記・子育てブログ

259.幼なじみ

2008.12.25 [ Edit ]

私の小学校2年生の時、親父が頑張って、土地を買って新居を建てました。
新居の住所は同じ市内でしたが、小学校の学区はまったく違う場所になり、
2年間はバスで通学していました。
首から定期券が入ったカードケースをぶら下げての、
毎日約一時間の通学を、いまでも薄っすら覚えていますが、
その時は一人前気分でしたが、頼りないものだったのだと思います。

ところが、越境通学は許されないということで、
新居のある学区の小学校に転校することになりました。

大人の世界の理由なので私にはよく解らず、仕方ないことと親父に聞かされ、
心の中では動揺していましたが、平気な顔をしていました。
そうしないといけないものだと思っていたような記憶があります。
ただ、一回だけ、親父方のおばあちゃんの前で、大泣きしたことも覚えています。

すべてが、薄っすらとした記憶ですが、
今思っても、なぜか心が寂しくなるような記憶です。

幼なじみ。
いい響きの言葉です。
私には、幼なじみが成長して今も仲が良いという友達は、そんな理由でありません。

小学校5年生から、友達の総入れ替えになりました。
その転校初日から、仲良くなった友達が、幼なじみと言えば、そうなのかもしれません。


もちろん、子供のことですから、転校してすぐに友達はできましたし、
別に、かわいそうな話ではないのですが、
新しく出来た友達数人と、友達の家に遊びに行った時、
その友達の母さんが、

「みつお、母さんは元気か?まさと、兄ちゃんは、今年から中学やなあ?」

こう言って、ひとりひとりに声をかけた後、

「その子は、だれや?」

私のことを、自分の息子に聞くのです。

その時、すごく悲しくて、すごく寂しくて、自分だけが仲間ではないという、
強い疎外感があふれてきたことは、今も鮮明な記憶です。

その鮮明な記憶の中の、友達の母さんが、先日亡くなりました。

「その子は、だれや?」から、
高校を卒業するまで、その母さんの息子が一番の親友になったことで、
その母さんは、いつも、私を息子の一人のように接してくれました。

息子が三人いて、私の親友は末っ子。
末っ子の友達だから、末っ子ともども大切にしてくれたのだろうと思います。
そして、実は、その家の長男が、私のサッカーのルーツなのです。

五年生の一年間は、”故郷”の詩の通りのような友だちでした。
山へ登ったり、魚釣りをしたり、琵琶湖で泳いだり、毎日そいつといっしょにいました。

六年生になってから、そいつは四時になったら、どんなに楽しい遊びをしてても、
途中で帰ってしまう毎日になったのです。
6歳上のお兄さんのサッカーの猛特訓が始まったからです。

あとで聞いた話ですが、その兄貴が高校三年生のときに高校選手権の県予選の決勝で、

ゴール前の簡単なシュートを外してしまい、それでチームが負けてから、
自分の夢を弟に託そうと考え、弟を日本代表に育てようと、無理矢理、猛特訓を始めたのだそうです。

そんな理由は、そのときに解るはずもなく、友だちを無理矢理奪い取る憎たらしい兄貴でした。
いつからか、四時になると始まるサッカーの特訓を遠巻きに毎日見るようになりました。

なぜ遠巻きかと言うと、その兄貴の特訓は、恐ろしいもので、
リフティングをしている親友がボールを落とすと、履いていた下駄で頭を殴る、
足で思いっきり親友の尻を蹴り上げる、今なら虐待で止められるのが確実なようなものだったからです。
恐ろしい形相で親友を叱る兄貴。
家にもよく遊びに行っていましたから、兄貴の家での怖さも知っていました。
彼の家は、農家だったので、彼にも分担の仕事があり、例えば、畑のイチゴの収穫。

学校が終わって、彼の家にそのまま遊びに行った時、彼のただいまの声の瞬間、

「トクヒコー、イチゴ摘んで、水に浸けとけーっ。」

家の奥から、どすの利いた声が響く、それが兄貴の声でした。
当たり前のように従う彼の畑仕事をいっしょに手伝う、それも、当たり前のような感じでした。

いつのころからか私も、時々、いっしょにサッカーを兄貴に教えてもらうようになりました。
弟には、そのままの厳しさでしたが、私にはそうでもなく。
それでも、びくびくはしていましたが。

そして、いっしょに中学入学、当たり前のようにいっしょにサッカー部に入りました。


そして、それからが怖い兄貴との本格的な付き合いの始まりで、
板前をしていた兄貴は、夕方からの仕事だったので、ほぼ毎日サッカー部のコーチに来るのです。

これも今では考えられないことですが、学校の許可だとか、要請だとかには関係なく、

勝手に毎日グランドに来ては、勝手にコーチするわけです。
思い出しても不思議なんですが、そのことを部員全員が疑問にも思わず、
勝手に現れる鬼コーチに素直に従って練習していたことです。

ここまでの話では、とんでもない兄貴のようですが、
いや、とんでもなく恐ろしい兄貴だというのは間違いないのですが、
コーチとしては素晴らしく優秀だったのだと思います。

何故かと言うと、中学校のサッカー部の戦績はぜんぜん大したことは無いのですが、
教えてもらっていたそれぞれが、それぞれの高校のサッカー部に入ると、
ほとんどが、その高校のレギュラー選手に、一年生からなっていたことを考えると、
優秀なコーチだったのだと思います。
その教え子の中には、後に日本代表になった奴もいるくらいです。

中学三年生の夏休み、兄貴に連れられて、高校のサッカー部の合宿に参加させられました。
親友の彼と二人でです。
そして、彼と約束しました、この高校にいっしょに入って、ここのサッカー部を強くしようと。

ところが、彼は約束を破り、京都のサッカー強豪高校に進学しました。
日本代表のキャプテンをやっていた柱谷哲司の出身高校です。
その他にも、たくさん代表選手になった先輩、後輩がいる学校です。
私は、約束どおりの高校に入ったのですが。

裏切られたと言えば、言えなくもないのですが、
このことで、友情にひびが入ったということはありません。
兄貴の意向だということは、わかっていましたし、仕方ないと思っていましたから。
中間と期末の試験がある前の一週間だけ、お互いの高校のサッカー部の練習が休みになる。
その一週間は必ず彼といっしょにいましたから。

ただし、これで、怖い兄貴とも縁が切れると思いきや、私が高校を卒業するまで三年間、

毎日ではありませんでしたが、コーチとして、またまた怖い兄貴がやってきたのです。


これも、あとで聞いた話ですが、
自分の弟は、全日本選手をたくさん輩出している高校に行ったので、
コーチ陣も信頼できるし、もう弟のことは、その高校に任せてしまい、
約束を破らせたお詫びもの意味もあって、私の高校を三年間コーチしてくれたそうです。


そんな理由とも知らず、この兄貴に、私は相当逆らいました。
なんで関係もないのに、殴られたりしながら従わないといけないのか。
来てほしくもないのに。
こんなことを真剣に考え、憎んでいたりもしていたと思います。

ところが、この兄貴の厳しいコーチのおかげで、
三年生の時に、県大会で優勝し、国体の選抜選手にも選ばれ、
おまけに、京都府の国体選抜のキャプテンになっていた親友と、
滋賀県の国体選抜のキャプテンをさせてもらっていた私が、
試合をした時、試合前の挨拶でキャプテン同士の握手をしたこと、
今でも、私の胸の中では、小さな感動物語になっています。

これが、親友の兄貴が、私のサッカーのルーツだという話です。

サッカーをやめようと思ったことはありませんが、
まさか、45年間もプレーヤーとして続けるなんてことも考えていませんでした。

この怖い兄貴に、今となっては、いくら感謝してもし足りないほどの恩を感じています。


この兄貴が、「この子は、だれや?」の母さんの葬儀の喪主でした。

弟は、法政大学のサッカー部に入り、東芝のサッカー部に入りというサッカー人生を送り、
結婚して横浜に新居を構え、関東の人になってしまったので、
盆と正月の帰省でしか会えなくなってしまったのですが、
いまでも、親友と呼べる奴のひとりです。

突然話が変わりますが、実は、この友は、鬱病なんです。

ちょっと長くなりすぎたので、ここからの話は明日にすることにします。

Comment

コメントの投稿

-----------注意事項-----------

コメント欄ににコメントいただいた内容は、
ブログの本文に引用することがあります。
このことをご了承の上でコメントをお願いします。

管理人にのみ表示する
 

Track Back

TB URL

最近の記事

最近のコメント

月別アーカイブ

カテゴリー

最近のトラックバック

カウンター

プロフィール

一人の父親

Author:一人の父親
強迫性神経症(強迫性障害 | OCD)と闘う父親の日記。画像は娘が描いたものです。

ブログ内検索

RSSフィード

リンクと読んでいるブログ